長い夏休みがやっと
終わりましたね。
今回また不登校というテーマで
書きたいと思います。
2017年に施行された教育機会確保法から
5年以上が経ち、
「多様化の時代」という言葉にも
慣れてきた頃かもしれません。
それでも、親は
子どもが実際に不登校になれば
世間の目が気になることだって
自然にありますし、
四六時中、子どもと一緒に家に居て
動かない、TVやゲームで一日が終わる
そんな子どもを見ていたら
誰だってイライラして口調もきつく
なるものです。
日本でもようやく
不登校特例校やフリースクールが
増えてきて、
希望の学校に進路変更したお子さんもいれば
したくても出来ない場合だって
あると思います。
どのような流れの中にあっても
これだけは強調したいことがあります。
それは、
子どもが「No」を表現できた。
それが不登校という形であっただけで
何らかの表現ができた。
…ということです。
これって、スゴイことではないですか?
考えてもみてください。
今まで、誰もが
学校に行くことは当たり前
そう思って生きてきました。
マジョリティから外れていなければ
正しい。安心。
誰もが疑わなかった。
そんな世界からドロップアウトする。
勇気の要ることだと思うのです。
子どもの行動が、どれだけ
大人の期待から外れていても
やっぱり、世間の目が
気になったとしても
不登校という行動として
表現することができた。
このことが、どれ程大きなことか
大人はもっと知っていいと思います。
少なくとも、
本気で想像してみなければならないと
私は思っています。
非常に恐怖を感じることだと思うのです。
言わば、学校という
その世界だけが、子どもの世界なわけです。
他のみんなは普通にそうしている。
そのレールから外れる。
人は人とつながることで
生き延びてきたので、
「群れ」から外れることで
恐怖を感じるのは当たり前です。
特に、この国では他国の何倍も
「非定型」の捉え方やそれに対する当たりが
まだ、今でも厳し過ぎます。
だから、子ども以上に親の方が
レールを外れることに対して
敏感になるものかもしれません。
だからこそ、子どもが普通の道を
この「普通」というのが、これまた
幻想以外の何物でもないのですが
普通の道に戻れるようにと
考えるのも仕方ないのかもしれません。
そうだとしても
表現方法が不登校であっても
他の行動であったとしても
それが出来なかった場合の
リスクやデメリットは
限りなく大きいものです。
その「No」には、
お子さんがこれから生きていくために
重要な点が隠されている可能性が
とても大きいです。
それは、発達課題かもしれないし
親子関係かもしれないし
その子にしかない才能やアイデアに
つながるものかもしれません。
だから、
子どもの「No」の中身よりも
表面的な「行かない」という行動だけを見て
「悪い」とジャッジし続け
子どもが何を必要としているのか
真に向き合わなかった場合
後になってから
心身に不調が出る
仕事や人間関係で問題を抱える
あるいは、精神疾患など別の形で
それを表現するしかないということも
あり得ると思うのです。
こうしたリスクやデメリットの部分に
気付かない
あるいは軽視している大人は
多いと思います。
その時に向き合わなかったツケは
子どもの将来に回ってきます。
脅したいのではありません。
今が、お子さんのことをより知る
もっと言わせてもらえば
大人が子どもから学ぶ
最大の時機だということです。
自戒を込めて書くのですが、
大人があまりにも変わらないから
子どもの方から「No」を言って
大人が変われるようにしてくれている。
そのように感じることさえあります。